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ベトナム工場画像01
 
Made in JapanのTakumicsに到るまで
監督ではなく選手として

 

僭越ながら、私がこの仕事をはじめた想いのいきさつを長いですが、もしも読みたい方だけでかまいませんので読んでみてください。

さしてやりたいこともなく凡蔵大学生だった私。

外国語学部フランス語、決して真面目に授業を受けるわけ

でもなく、卒業間近就職していく同級生を横目に当時小説

流行った沢木耕太郎の深夜特急に影響されてそれに

はまっていた。

ちょうどバイト先の先輩が南米大陸を単独で自転車横断した

話も手伝ってバックパックでインドへ。

インドになにかの答えがあると勝手に思い込み、フィルム

一眼レフのNikon2台を抱えアテのないオープンチケットを

持ってバックパック一人旅へと行ったのが今思うときっかけ

なのだろうか。

現地で必死で生きる人々の姿、足を切られた子供、ガンジス

川ほとりで焼かれる人の亡骸を見てやりたいことを見つけて

死にたいな、と。

帰国後しばらくして手先だけは器用だったので何かの職人に

なりたいと思った。

当時学生時代から住んでいた京都で革製品を扱う会社に面接に行く。自分で材料を買い手縫いした財布を持っていき、生意気にも社長面接の際に独立するつもりだ、と言った。

今思えばそんなに人間をよく雇ってくれたものだ。

当時の社長(現会長)には今でもお世話になっている。

縫製職人見習いとして入社し、毎日ミシンに向き合いつつ、ペンカッターを持って細かい文字を型どった革を切り、細かいデザインの革をミシンで縫いつけ日に日に革とミシン作業の楽しさに没頭する。

年月を経て革製品やロゴのデザイン、生産管理を兼任し、しばらくした頃、会社でベトナム工場の立ち上げの話が持ち上がり、何故か社長に指名される。

ベトナムの片田舎に日本人ただ一人で工場長として赴任。

何もないところから工場を立ち上げるのは容易ではなく、たくさんの困難に遭ったが、今ではそれも笑い話。

現地ではやることが多く通訳もいないのでベトナム語を勉強し、のんびりできないので歩く速さも速くなる、雇った腕のよい熟練職人と仕事の進め方でたくさん喧嘩もし、彼に椅子も投げつけられた。

うまくいかない時、スコールの夜の真っ暗な停電中、充電が切れそうなノートPCから流れる八代亜紀の雨の慕情を聴いて日本を恋しく思ったり。

年月を経て現地の工員さん達と昼間に他愛もない話を慣れないベトナム語を使ってするのもだんだん楽しくなってきた。

楽しみな休日、当時は日曜日のみだったが必ずホーチミンのバックパック街に出かけて安宿に泊まって外国人と話したりしたものだった

チンクエチェント

生意気だった私は東京で自分の力を試したくなり2年間のベトナム駐在後転職し意気揚々と上京。

東京はエース級の人たちが集まる、転職した代官山の会社はまさにそれ、井の中の蛙だった。

毎日の事務作業と生産管理で朝から終電間近まで沢山先輩方に叱られながら大量の仕事を背負って働いた。

出張で行くベトナム、懐かしい生暖かい空気、ミシンを踏む音を聞くとやはり自分は海外工場の監督でなく日本でMade in Japanの、ものつくりをする選手になりたいとより強く思うようになる。

今思うとこの会社での経験が生産管理の能力を磨いてくれた大切な時間だった。

 

その後転職し、もう一度職人に戻って、皇室関連の仕事をした老練な先輩職人たちから伝統の技術を学び職人の技術をさらに高めていただけた。

その後、代官山の会社の上司が独立し会社を作ったあと、声を掛けていただき、生産ラインと製品を作る職人の仕事もさせていただいた。

ここで今までやってきたことの集大成ができた。

そして旅行で行ったパリの寒い冬空に左ハンドルのMT仕様のFIATのレンタカーを借りて慣れない道を運転した初夏のイタリア。ラベンダーの繁る田舎の風景のオルヴィエート、チビタ、フィレンツェ。

ヨーロッパの色彩の繊細さと鮮やかさがますます自分の中のもの作りをしたい気持ちを高めてくれた。そろそろ、かな、と独立をすることとなった。

仕事を媒介して沢山の事を学び色々な人に出会える。

最初は辛かったベトナムも、毎日残業した代官山の会社でのことも、今の自分を作ってくれた栄養となった。

今でも先輩方や前社の社長にも応援していただき、新しい技術や知識を欲し続け2012年3月に独立し、今に至るのがTakumicsのちいさな歴史。

まいにち、まいにち製品に向き合い手しごととして革の製品を企画デザインし職人として製作しています。

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