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革職人
Takumicsクラフツマンシップ
熟練クラフトマンとメンズ レディースを超えた
レトロ スタンダードデザイン。

長年業界で培った経験をもとに選んだイタリア製最高級レザーやとても希少な国産藍染革を製品の素材としてふんだんに使っています。副資材としては最高級ランクのファスナーをはじめ、高価な日本製真鍮金具を多用し、いつの時代にも合うクラシカルな要素を素材と調和させています。実用性と美しさを考え、構造設計もフルオリジナルでデザイン、我々熟練職人が製作しています。 

Takumicsの名前の由来は、職人Takumiの名前とTechnicを掛けて命名。ブランドロゴのタツノオトシゴは姿が馬や竜の頭を連想させるために辰年の動物として引用され、ギリシャ神話に登場したり、漢方薬として、産婦が干して袋に収めて腰につけると安産のお守りになると信じられていました。ブランドロゴの王冠上にはクラフトマンの象徴としての金槌をモチーフに。最高級クラス職人を常に目指し上質な製品を産み出し、それが持ち主に愛されるよう願いを込めてこのブランドロゴとしました。

Takumicsのエイジングレザー
じぶんのいろ、最後仕上げは持ち主で。
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Takumicsに到るまで
Made in Japan 監督ではなく選手として。

Takumicsの革は染料で染めた革を使っているので、表情が時間とともに革色の変化=エイジングとして楽しめます。染料は紫外線などで色が深く変わってゆきます。届いたばかりの革は確かに綺麗なのですが、持ち主が使って自分の歴史として自分色に染めてください。

傷を隠すためにスプレーで顔料が塗られた塗装革は材料費を安くするためにする工程ですが、Takumicsではそのような革は使いません。顔料塗装の革は均一でほぼ色の変化がなくのっぺりとした表情になりますが、Takumicsの革は革ひとつひとつに個性として表情や模様があります。人と同じで牛にも個性があります、命をいただいた大切な革をありがたく生かして価値をつけてあげるのも職人次第だと思っています。

 

僭越ながら、私がこの仕事をはじめた想いのいきさつを書かせてください。

さしてやりたいこともなく凡蔵大学生だった私。外国語学部フランス語、決して真面目に授業を受けるわけでもなく、卒業間近、就職していく同級生を横目に当時小説で流行った沢木耕太郎の深夜特急に影響され小説にはまっていた。

ちょうどバイト先の先輩が南米大陸を単独で自転車横断した話も手伝ってバックパックでインドへ。インドになにかの答えがあると勝手に思い込み、フィルム一眼レフのNikon2台を抱えアテのないオープンチケットを持ってバックパック一人旅へと行ったのが、今思うと仕事探しのきっかけなのだろうか。現地で必死で生きる人々の姿、足を切られた子供、ガンジス川ほとりで焼かれる人の亡骸を見て何かを得たのか感じたのか、やりたいことを見つけて死にたい。

帰国後、しばらくして手先だけは器用だったので何かの職人になりたいと思いはじめ。当時学生時代から住んでいた京都で革製品を扱う会社に面接に行く。自分で材料を買い、手縫いした財布を持っていき、生意気にも社長面接の際に独立するつもりだ、と言った。そんな自分をよく雇ってくれたものだ。

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縫製職人見習いとして入社し、毎日ミシンに向き合いつつ、ペンカッターを持って細かい文字を型どった革を切り、日に日に革とミシン作業に没頭。年月を経て革製品やロゴのデザイン、生産管理を兼任し、しばらくした頃、会社でベトナム工場の立ち上げの話が持ち上がり、何故か社長に指名される。ベトナムの片田舎の町に日本人ただ一人で工場長として赴任した。何もないところから工場を立ち上げるのは容易ではなく、たくさんの困難に遭ったが、今ではそれも笑い話。現地ではやることが多く通訳もいないのでベトナム語を勉強し、のんびりできないので歩く速さも速くなる、雇った腕のよい熟練職人と喧嘩もし、彼に椅子も投げつけられた。うまくいかない時、スコールの夜の真っ暗な停電中、充電が切れそうなノートPCから流れる八代亜紀の雨の慕情を聴いて日本を恋しく思ったり。年月を経て現地の工員さんたちと昼間に他愛もない話を慣れないベトナム語を使ってするのもだんだんと楽しくなってきた。楽しみな休日、当時は日曜日のみだったが必ずホーチミンのバックパック街に出かけて安宿に泊まったものだ。

東京で自分の力を試したくなり2年間の駐在を経て転職し上京。東京はエース級の人たちが集まる、転職した会社はまさにそれ、井の中の蛙だった。毎日の事務作業と生産管理で朝から終電間近まで働いた。出張で行くベトナム、懐かしい生暖かい空気、ミシンを踏む音を聞くとやはり自分は海外工場の監督でなく日本でMade in Japanの、ものつくりをする選手になりたいとより強く思うようになる。その後転職し、もう一度職人に戻って、皇室関連の仕事をした老練な先輩職人たちから伝統の技術を学ぶ。

旅行で行ったパリの寒い冬空、左ハンドルのMT仕様のFIATのレンタカーを借りて慣れない道を運転した初夏のイタリア。ラベンダーの繁る田舎の風景のオルヴィエート、チビタ、フィレンツェ。

ヨーロッパの色彩の繊細さと鮮やかさがますます自分の中のもの作りをしたい気持ちを高めてくれた。そろそろ、かな、と会社を辞めた。

仕事を媒介にたくさんのことを学びたくさんの人に出会った。最初は辛かったベトナムも、毎日残業した東京の会社でのことも、今では自分を作ってくれた栄養となった。今でも先輩方や前社の社長にも応援していただき、新しい技術や知識を欲し続け2012年3月に独立し、今に至るのがTakumicsのちいさな歴史。
​こんな経歴を経てまいにち、まいにち製品に向き合い手しごととして革の製品を企画デザイン製作しています。

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